![]() |
![]() |
![]() |
|
|||||||
|
|||||||
AKIRA KAJIYAMA + JOE LYNN TURNER 元RAINBOW/DEEP PURPLEのヴォーカリストとして知られるジョー・リン・ターナー。梶山 章が彼と音楽活動を共にすることになる切っ掛けは、1998年に梶山が元ANTHEMのヴォーカリスト森川之雄と組んでリリースしたRAINBOWトリビュート・アルバム「虹伝説」に、ジョーがゲスト参加したことだった。 日本に来て「虹伝説」に2曲参加した時、ジョーは梶山のギター・プレイに感銘を受け、「今度、俺のソロ・アルバムでギターを弾いてくれ」と申し出た。それは単なる社交辞令ではなく、1998年末、ジョーは実際に次のソロ・アルバムの録音のために梶山をニューヨークのスタジオに呼び寄せた。このとき、ジョーが作っていたのは翌1999年にリリースされることになるカヴァー・アルバム「UNDER COVER 2」。この時、初渡米した梶山は「Lady Double Dealer」「Fool For Your Loving」「The Race Is On」の3曲のリード・ギターをプレイすることになる。 初めて会うニューヨークのスタッフを相手に、前もって打ち合わせをする余裕も無いままスタジオ入りした当日に3曲分のレコーディングをこなした梶山の仕事ぶりに満足したジョーは「次は一緒に曲作りをしよう」と提案した。そこで梶山は、ジョーに提供する楽曲のデモを用意し始める。当初、「UNDER COVER 2」に続くジョーのソロ・アルバムは、レーベルの意向もあってアメリカのミュージシャンとの作業だけで完成する予定だったが、梶山が最初に送った8曲のデモを聴いたジョーは「これらの楽曲をアルバムに使うべきだ」と急遽リリース予定を延期、さらに8曲(といくつかのアイディア)が入ったデモを送ってきた梶山を2000年2月にニューヨークに呼び寄せ、曲作りのセッションを行なった。 このセッションで手ごたえを感じたジョーはアルバムの大半に梶山の曲を用いることを決め、同年3月には梶山が再びニューヨークに飛び、作曲・アレンジともに彼自身が担当した7曲をレコーディングした。この7曲が収められたのが、2000年7月にリリースされたジョーのソロ・アルバム「HOLY MAN」である。 「HOLY MAN」に伴うジョーの日本ツアー(ソロ初来日)は2000年10月に行なわれ、梶山も勿論プレイした。このときのバンドは、「虹伝説」でもプレイしたGERARDの永川敏郎(key)とEARTHSHAKERの工藤義弘(ds)、そして、ジョーが「スペシャル・ゲスト・ベーシスト」として参加を要請したグレン・ヒューズ(b,vo)。グレンも数曲リード・ヴォーカルを取ったこのツアーが切っ掛けで、HUGHES TURNER PROJECT(以下HTP)の構想が芽生える。 HTP用の楽曲を求められた梶山は、早速30曲以上のデモをジョーとグレンの双方に送ったが、グレン・ヒューズが自らのソロ・アルバムの予定を優先させたことにより、HTPは後回しとなり、ジョーもソロ・アルバムに取り掛かることになった。そこでジョーはデモから13曲をセレクト、2001年6月に梶山をニューヨークに呼び寄せた。 3週間ほど滞在した梶山は現地で書いた1曲を加えた全14曲をリハーサル。ここまでは順調だったが、レコーディングに突入すると機材のトラブルが続き、作業は著しく難航。帰国前日には、録音したギター・トラックの多くが失われたことが発覚し、徹夜で弾き直してそのまま空港へ向かう等、極限状態での体験を強いられたが、それでも何とか予定どおり「全曲ジョーと梶山の共作アルバム」は完成した。それが、2001年9月リリースのジョーのソロ・アルバム「SLAM」である。 「SLAM」がリリースされる頃、ジョーはHTPのファースト・アルバムに取り掛かった。HTPは、いつの間にかグレンが作業の主導権を取っており、彼がソロ・プロジェクトで活動を共にしているJJ・マーシュというギタリストと共に曲作りを進め、そこにジョーも加わるという性質のものとなっていた。したがって、梶山の楽曲の採用はなかったが、ポール・ギルバート、ジョン・サイクスと並んで梶山も「ゲスト・ギタリスト」扱いで参加を要請され、2曲でプレイした。 アルバム「HTP」が2002年2月にリリースされると、HTP名義での日本ツアーが同年5月に行なわれ、そこには前回のジョーの来日と同じく梶山が参加。永川と工藤も再び起用されたこのHTP日本ツアーの模様はライヴ・アルバム「LIVE IN TOKYO」として同年8月にリリースされることとなり、そのエンジニアは梶山が務めている。 この時点で、ジョーに送ったもののレコーディングに至っていないデモ曲が相当数に達したため、梶山はそれらをソロ・アルバムとしてリリースすることを検討、これが発展して森川之雄とのプロジェクトGOLDBRICKとなっていく。GOLDBRICKのファースト・アルバムが発表された2003年、ジョーは梶山が全く関与しないソロ・アルバム「JLT」をリリースし、同年の「HTP2」にも梶山は全く参加しなかった。だが、ジョーと梶山の絆は固く、2004年2月に行なわれたHTP二度目の日本ツアーにおいても、当然のごとく梶山がギタリストを務めている。 梶山が再び「ジョーとのアルバム作り」に動き始めた切っ掛けは、ジョーが2005年2月にリリースしたソロ・アルバム「THE USUAL SUSPECTS」のプロモーションのために、同年3月に来日したことだった。このプロモーション来日においてジョーは梶山とアコースティック・ライヴを行なったのだが、梶山から「実は、森川が当分POWERNUDEの再編~再始動に忙しく、GOLDBRICKの予定がないので、ソロ・アルバムを作りたいと思っている」と打ち明けられたジョーは、即座に「俺が歌ってやる! 曲が出来たら送ってこい!」と言って、梶山を励ましたのである。これが、梶山のもう1つのプロジェクト、AKIRA KAJIYAMA + JOE LYNN TURNER(以下AK+JLT)の出発点である。 初めてジョーと全面的にコラボレートした「SLAM」ではスタジオでのトラブルに振り回され、不本意な結果に終わってしまったという後悔の念があった梶山にとって、AK+JLTのファースト・アルバムは、一種の「リヴェンジ」だった。GOLDBRICKのアルバムでは総て自らがエンジニアリング&マスタリングを行ない、自分なりの満足感を得ていた梶山は、それと同じ方法論を、ジョーとのアルバムつくりでも実践したいと思っていたのである。 ジョーのブルージーでソウルフルな魅力に惹かれている梶山は、そうしたジョーの歌唱を活かす楽曲をいくつも新たに書き加え、当初の「過去のストックを利用する」というアイディアから一歩進んだ、「AK+JLTとしての方向性」を追究した。梶山が本当に好きな音楽を実践するために、ジョーの最も魅力的な部分を引き出す…それが、梶山の求めるAK+JLTのサウンドだった。ジョーもまた、そうした梶山の思いを、言葉で語るのではなく直感的に理解し、正面から受け止めた。そうして出来上がったのがAK+JLTのファースト・アルバム「FIRE WITHOUT FLAME」だ。 2005年12月に「FIRE WITHOUT FLAME」をリリースしたAK+JLTは、2006年2月に、この名義で初めてのライヴを東京で行なった。梶山とジョー以外のメンバーは、永川敏郎率いるプログレッシヴ・トリオGERARDの3人…つまり、GOLDBRICKのDVD収録ライヴでバックを固めたメンバーである。 AK+JLTとしての2枚目のアルバムに関しては、今のところ具体的なスケジュールは検討されてはいないが、ジョーも梶山も「次も必ずある」と確信している。 |
|||||||
このページのトップ | |||||||
GOLDBRICK GOLDBRICKは梶山 章(g)が森川之雄(vo)と組んで2002年にスタートさせたプロジェクトだ。 森川は1987年にANTHEMに加入するや否や、そのパワフルな歌唱で注目を集めた実力ヴォーカリスト。梶山が森川を知ったのも、彼がまだANTHEMに在籍していた1990年代初期のことで、2人で何かプロジェクトをやろうという話は当時からあったが、それが初めて現実のものとなったのは1998年のRAINBOWトリビュート・アルバム「虹伝説」だった。自らのバンドPOWERNUDEを率いて活動する森川にとって、RAINBOWの楽曲をカヴァーする「虹伝説」のような企画盤なら参加は可能でも、梶山とオリジナル曲をプレイするようなパーマネントなユニットを結成することは不可能だ…とその時点では思われた。 一方、梶山は「虹伝説」にゲスト参加したジョー・リン・ターナーと1998年以降仕事を共にする機会が増え、梶山がジョーに渡した自作曲のデモから数多くの楽曲がジョーのアルバムで用いられたが、ジョーが歌わなかった楽曲を梶山のソロ・アルバムという形でリリースしようという話が2001年に持ち上がった。そのとき、梶山が森川に「自分の曲を歌ってくれないか」と持ち掛けたのがGOLDBRICK誕生のきっかけである。 梶山のデモを聴いた森川は、「自分はPOWERNUDEを止めるつもりはないが、ぜひこれらの曲を歌いたい。やるからにはバンド名も決めよう」と乗り気になった。そこで梶山は、森川と対等な立場のユニットとしてGOLDBRICKを結成。まず2002年春に森川がデモから10曲をセレクトして歌詞とメロディを書き、梶山はGERARDの永川敏郎(key)、陰陽座の瞬火(b)と斗羅(ds)といったミュージシャンを起用してバッキング・トラックを完成させた。 2002年晩秋、ギター・トラックの録音に続いて森川のヴォーカル・レコーディングも終えると、梶山自らがエンジニアとしてミックスからマスタリングまで1人で行ない、GOLDBRICKのファースト・アルバム「GOLDBRICK」が2003年初頭に完成、同年3月にリリースされた。 ファースト・アルバムのレコーディング・メンバーによるGOLDBRICK初のライヴ・ツアーは2003年5~6月に行なわれ、その模様はライヴ・アルバム「GOLDBRICK LIVE! ~GROOVY NIGHTS 2003」として同年11月にリリースされたが、その時期には早くも梶山と森川は、GOLDBRICKのセカンド・アルバムの準備に取り掛かっていた。この時点で梶山が用意してあった新曲は既に数十曲。しかし、リテイク/リミックス/リマスターによるPOWERNUDEのベスト盤が梶山のエンジニアリングによりビクターから2004年3月に発売されること、梶山が参加するHUGHES TURNER PROJECTの日本ツアーが2004年2月に行なわれること等により、実際の作業は2004年春からということになった。 2003年末までに梶山が用意した新曲から森川が11曲を選んで、2004年の春には、後に実際のアルバムとして完成するものに非常に近い形のデモが完成。このアルバムのレコーディングにおいては永川敏郎率いるプログレッシヴ・トリオGERARDをそのままバッキング・メンバーに起用することが決まり、GERARDの長谷川 淳(b)と藤本健一(ds)がリズム隊として初参加、梶山のミックス&マスタリングによるセカンド・アルバム「GOLDBRICK Ⅱ」は予定どおり2004年10月にリリースされた。 梶山&森川プラスGERARDという形での新生GOLDBRICKのライヴは2005年1月8日に行なわれ、その模様を収録したライヴDVDが同年6月に発売されたが、その後、梶山はジョー・リン・ターナーを全面的にヴォーカルにフィーチュアしてのソロ・アルバムに着手、森川も新たなラインナップによるPOWERNUDEを軌道に乗せるために多くの時間を割くことになったため、サード・アルバムに着手するべき時機を見極めつつ、梶山が徐々に新曲を書き溜めている。 |
|||||||
このページのトップ | |||||||
Copyright Control 2006 Sutudio 405, Akira Kajiyama - All Rights Reserved. |
HOME | BIO | DISCOGRAPHY | PROJECT | PHOTO | MEDIA ARCHIVE TALK ABOUT... |